福善寺は香川県高松市の中心部にある真宗大谷派(お東さん)のお寺です。

ホーム > 寺史展望

寺史展望

武田信玄ゆかりの正了が初代住職

甲州から讃岐へ移る

寺伝によれば、福善寺は往古甲州小比賀村(現在の山梨県)にあった寺で、大永年中(1521年)沙門正了により讃岐に移った。初めは坂田郷に寺を造営し、その後文禄3年(1592年)、その時の城主生駒親正がこの寺を城下東浜村(現在の琴電片原町駅の東北で、かつては鶴屋町小学校があったところ)に移し、ついで生駒氏4代高俊が寛永16年(1639)9月に現在地に移して後、寺町が形成された。そして元録7年(1694)高松藩主「松平頼重(源英)公により堂宇を修復せり」と讃州府誌や讃岐名所図絵等に書かれている。
正了は、武田信玄の舎弟又は近親といわれている。小比賀村では空賢、空信、空了、了心の4人の住職がおり、5代目住職正了が讃岐の国に移る、その時門徒の真田、木村、宮武家の他深妙寺、常善寺、由佐西光寺も前後して大永年中に当国入りしたようである。

開基は平安期か?

坂田郷に寺を設立

空賢、空信、空了、了心4代の記録はないが、逆算すれば、開基は嘉吉、文安の頃と思われる。大永元年に信玄が生まれているから5代正了は、深妙寺の澄俊が天正年中に甲州より来たり、坂田郷に創立したころと同じ頃かもしれません。天正元年は信玄の没年である。恵林寺に快川国師(心頭滅却すれば、火も自ら涼しいと焼死した)を招じて参禅した信玄は戦国武将の中でも特に教養があり、孫子を読み詩文に長じ「立ち並ぶ甲斐こそなければ桜花、松に千歳の色は習はで」と詠み、その死因は敵方の笛の名手松村芳休の笛に誘われ、耳を打たれたのが元になって亡くなったともいわれ、天正元年4月12日信州伊那の里に没した。(行年53)、比叡山竜仙院に毘沙門堂を築き大僧正を謚られ法性院といい、信玄は法諱である。その奥方は本願寺第18代顕如上人の裏方と姉妹であった。

無漏山・福善寺と命名

石山合戦で戦功を樹てる

当国入りした正了は、坂田郷に一宇を創立し、地名にちなみ無漏山福善寺と称した。最初安原村甲斐に居たともされる。8代目覚玄は傑僧で、長楽寺や願勝寺その他僧俗と共に石山合戦に参加して戦功あり、一時囚われたが牢を破って各地に転戦、功により感謝状並びに徳川四天王の本田忠勝の立葵文陣羽織を拝領したそうである。残念ながら先の空爆で蔵ごと焼失した。
嗣子である9代性空は慶安元年8月26日早逝し、覚玄も同6年10月8日遷化した。教如上人御遷化より7年目である。それから20年後の寛永16年、藩祖源英公が水戸から御入府により、3番丁浄願寺を旦那寺と定め、現在の中央公園のところに広大な寺域と壮麗な寺門を造営した。そして浄願寺跡へは浄土宗正覚寺を移転させ、正覚寺跡へは福善寺が高松城東門より移転した。現在地である。
思うに、戦災焼失の本堂は源英公が修復とあるが、普通本堂より内陣その他中心部に萱又は楠の大きな丸柱が10本も多くあり、床の下にも金箔が押されてあったことから旧正覚寺本堂であったかもしれないと思われる。

寺格が院家地となる

第12代住職円空は源英公に召されて法を説いたと史書にあり、宝永5年7月10日寂、13代観空は享保13年12月29日遷化といずれも墓碑に刻まれている。観空は非常に達筆であった。
14代徳厳院理空この時代より寺格が院家地となり、住職も院号を頂き、その似影を本堂余間に揚げることとなる。理空は父観空に勝る能書家で、御伝抄の奥書きに理空文叡紫峰の雅印も捺している。惜しくも戦災焼失した。

単層入り母屋八脚門を造営

壮麗で見物客絶えず

第14代理空は就任後四年目の享保16年にに本堂を修理し、北縁は楠材10センチ板を張り、御影石の縁塚とし、勾欄擬宝珠(唐金)には享保16年云々と刻まれていた。その子道護の頃、鐘堂再建し、単層入り母屋、本瓦葺、柱は円型総欅造り、雨落ちは、8メートル四面、狭間の唐獅子も立派であり、特に柱下二重沓石はもとより、2メートルの基檀は格別大きな御影石を用いて壮大であった。
尚、梵鐘は天平年間の作らしく、無銘ながら形もよく、先の大戦にも柴田常慶技官より岡部長景文相に文化財として保存申請してくれ、鐘同礎石は失われたが梵鐘は無傷である。鐘を衝ける時代が来れば妙音を聞いて菩提心を起こす人もあろう。
又寛保2年寄進の大鑿も焼失本堂に残っていた、焼失大門は16代道薀又は17代道顕の頃らしく、単層入り母屋八脚門欅赤味材を三年間乾燥して知着工し、本門出入り口は高さ幅とも八尺、馬に乗って入れるもの。屋根は本瓦みのこ葺、鬼瓦両脇門共で30個あり、大戸と片開きの小門の戸にも八葉型唐金に金鍍金の金具数十個、燦然として建立時は壮麗美観、猿近より参観者が絶えなかったとか。
門前には堀を巡らし、そり橋を架け城構えであった。再建前の門はやや小さく世尊寺流の福善寺額は本堂天井裏にあったが西門に掲げ焼失した。

廃仏毀釈の風雪に耐える

高松市役所仮庁舎となる

第18代顕徳院道暢は、万延元年9月16日45歳で遷化、子息海徳院道潤は若年にて寺務に就き、明治維新の廃仏毀釈の風雪に耐えたが、一人娘文子の養子問題に加えて、明治9年、現如上人御巡錫に当たり、旧書院北側に客殿茶室を建てたが、その負債に生涯困窮を重ねた。大正10年頃、本堂北破風雨鬼瓦下り尾と共に下屋に落ち本堂半壊に及び、その修復に辛苦し、会議は袖瓦葺に決したが、筒井総代が縁塚の御影石柱を見て、先祖に恥ずかしいと遂に本瓦平丸葺にて完成させた。
多年の負債も解消し、修理予算六百円が三千八百円を要した。なお、客殿、茶室は広大な庭と共に低当流れとなり他人の手に渡った。しかも、当時は大門付近百六十坪も抵当に入っていたので、裏の方を手放したとのことです。
明治23年6月高松市が市制施行することとなり初代赤松渡高松市長がこの福善寺を仮庁舎として行政を始め、明治34年10月までの12年間使用してきた。
かくて、第五代正了が当国入りして四百年の歴史ある武田家も20世道潤を以て終止符を打つことになった。道潤遷化は大正12年8月31日関東大震災の前日、行年80であった。

女婿と孫養子の対立続く

第21世住職が終止符

第20世道潤没後5年を経過したが、女婿哲司、孫養子良三郎両氏の対立止まず、門徒もその去就に惑い、他寺のお世話になる者も出始め、その処置に総代も困却していた。
たまたま、中讃福家の長然寺、15世釈氏雅良が故あって、義弟尚丸に継続権を譲り実子信政はいず方かへ入寺すべく、ぼつぼつ話が出ていたが、折から山田本念寺住職岡清丸法友として仲介の労をとり、寺檀の協議を取りまとめ、昭和2年8月1日、多数の門徒代表者に迎えられ普山。第21世住職となり、多年の争いに終止符を打った。寺族の補償や本山の諸手続等、多額出費に苦慮した。
かくして就任後7年、寺運ようやく隆盛に赴時、昭和9年12月、55歳をもって病没した在職中、諸殿の修理や、物具什器の整備、過去帳整備完成、無縁供養等、幾多の業績にその早世を惜しまれた。

高松空襲で全て焼失

継職法要の翌年、即ち昭和12年5月30日、前門主並びにお裏方の初の御巡化を四国教区代表としてお受けし、庭園の補修、什物の補充等、あらゆる面でで完備したが、わずか9年後の昭和20年7月4日未明の戦災で大堂伽藍ことごとく焼失し、見渡す限り焼け野原と化した。 翌年3月まで勅使町西小山に仮寓し、焼け跡地に12坪の住宅を建て、年中行事もここで営む、22年5月着工50坪の庫裡兼本堂を造営、年末宗祖報恩講と共に落慶入仏供養を執行した。
次に24年書院を勅使の井上家より移築し、京都山科より宣暢院連枝をお迎えし、蓮如上人四百五十回御遠忌法要を厳修した、その後昭和29年4月、広大な空き地に「ふたば幼稚園」を設立し、10年間住職は園長を兼任し幼児教育にも努めたが、各園ともスクールバスを利用するに至り、兼任園長では事故等の責任問題に鑑み、38年3月をもって廃園とした。その跡地に戦前の例により四国教務所を建設し、教化センターとして活躍することとなった。因みに堂宇焼失後、焼け跡整理仮本堂のため門徒の勤労奉仕は延べ1千数百人に及んだ。

仮設本堂から本建築本堂へ

前述の四国教務所は、宗教法人四国会館北側半分を使用し、3階を仏間並びに講和研修室に、入口は当寺境内を使用して西向きとし(現在は南向き)道側半分は貸事務所とし(現在は店舗)、教区教化費補助の財源とした。
3階建て、延べ150坪の会館出現により、当寺の平屋50坪の仮本堂は四国教区120寺、門徒1万5千戸の教化センターの一翼にはふさわしいものとは見えず、役員会を開き、既設建物ほとんど全部撤去し、鉄筋2階建て、参道も含めて348坪の本建築に改めることに決し、1年余の後に竣工した。 即ち、昭和42年5月4日若院結婚式、5日落慶供養を営む。参加法中20余ヶ寺、稚児音楽お練供養は盛大であった。
その時の車庫棟(参道)等の建築借入金は金利のみで毎日2千5百円で数年かけて支払った。法要費等で決済までには三千五百万円余り、門徒依頼額は1千万円、1戸平均二万円であった。
新様式本堂とて他県からも役員を連れた参観者がしきりに見えるため、その秋にも両庭園を一応整備したが、本堂掲示の門徒寄付金と雄大な建造物を比較して皆驚いた様子であった。本堂再建後14年、今は建築費10数倍になり、中央通りには百億円かけたビルも誕生した。

寺の基盤整う

鉄筋本堂客殿並びに庭園も完備し、若院も坊守を迎えたのを機に就職していた県庁を辞め、造寺の本義に沿う。
かくして48年「宗祖ご誕生八百年慶讃御待ち受け法要」に門主台下の御巡錫を受けて3月3日午前中親教、午後は第23世継職法要を賑々しく勤修した。42年の落慶法要同様に盛大に勤められた。

昭和52年福善寺門徒会を結成し、益々の組織機能充実を図る。 2002年福善寺門徒会結成25周年を機に本堂冷暖房設備新設、納骨堂拡張工事を完成させ、同年9月22日、23日記念式典を厳修する。
2007年5月13日庫裡等建設落慶法要と共に第24世住職継職法要を盛大に執り行い、現在に到る。

真宗大谷派 宗教法人 福善寺

〒760-0044 香川県高松市御坊町1-1
TEL:087-821-8954 FAX:087-821-8979